昨日、とある美術館に行って来ました。

日本画の展覧会でした。いわゆる花鳥風月とか、そういう系統の絵画です。でも、伝統的な日本画というよりは、現代的な日本画の展覧会だったので、画題も花鳥風月にとどまらず、西洋画と変わらない題材を日本画の技法で表現した、というような絵も多数ありました。
自分は別に絵に興味があるタイプでは無いのですが、様々な絵をいっぺんに目の当たりにして、絵から色々なものを感じる事ができました。
今回見た絵は、まず一枚一枚が大きかったです。日本画が元々、屏風やふすまといった大きな物に描かれてきた為なのでしょうか?
大きいとそれだけで絵が自分に迫って来る感じがします。絵が自分を取り囲んで来るのです。その分、絵から発せられるメッセージも受け取り易い気がしました。
何より、これだけの大きさのものは、単に描くだけでもかなりの労力、時間そして精神的なパワーが必要なはずです。
作者が絵に込めたパワーは、画面で様々な色や光に変換され、絵がそのものが発するパワーとなって自分の目と心に迫って来ます。
ただ、自分としては、作者がどんなメッセージを込めたか?という点には余り興味はありません。純粋に絵そのものから発せられるメッセージなり印象なりが重要な気がするのです。

鑑賞

まず、適度な距離を置いて絵と正面から向き合います。近過ぎると何が描いてあるのか良く分からなくなってしまうので、ちょっと下がって丁度ピントが合う距離を探します。そして、目を動かさなくても絵画全体が視野に収まる距離で、その絵の第一印象を受け取るのです。その後、少し近寄って絵の中に入った様な感じを味わったり、少し斜めから眺めてみたりして、絵から受ける感じがどう変わるか確かめます。そして、絵のタイトルと解説を読みます。

距離と角度

「色んな距離と角度から見る」というのは、ハロメンを見る時にもポイントになるものです。最前列では気付かないけれど、中列や2階席になると見えてきたりすることや、届いたりする彼女達からのメッセージもあるでしょう。
色々な角度、切り口からハローを眺めてみるのというのも重要です。音楽面から語ってみたり、ダンスやヴィジュアル、キャラクター、歴史や物語、ネタ、など様々な面から語る事で楽しみが増えます。(千奈美に、今日は絵画とハローという切り口に挑戦しているのですw)ハローはそれだけ多様な角度からの鑑賞に耐える作品だということです。

タイトル

絵にはタイトルが付いています。タイトルは端的に「その絵が何を表現しているのか」を示しています。タイトルなど見なくとも、ひと目で何の絵なのか判る絵もありますが、逆にタイトルを見て初めて何を描いていたのか合点がいくような絵も多数ありました。
ただ、自分としては、そういう絵にとってはタイトルはそもそも重要ではないのではないかとも感じました。
どういう事かと言うと、例えば、暗い色彩で多数の線や模様が描かれた絵があったとします。一見すると何を描いているのか分からない。しばらく眺めてから、タイトルを見ると「森」となっている。ここで初めて「あぁこの絵は森を描いていたのか」と分かる訳です。
でもこの時、この絵にとってそれが森なのか、それとも林なのか木なのか、という事は大して問題ではないのです。重要なのは暗い色彩や線や模様から、つまり絵そのものから何を感じ取ったか?という点なのです。
作者は決して森自体を描きたかった訳では無く、画面を通して現されるメッセージ、例えば不安や孤独、苦悩といったものを描きたかったのに違いないのです。
タイトルにとらわれる事なく、画面そのものから受け取るメッセージを大事にすること、それが重要だと思いました。

名前にとらわれるな

これを無理矢理ハローに当てはめてみると「名前にとらわれるな」という事になるでしょうか?
メンバーの個人名や、曲名、ユニット名などなど、当たり前ですがハローでも色々なものに名前が付いています。その時に、名前で判断するのではなく、実際の中身を見てそこから感じるものを大切にしてほしいと思います。
でも、一番言いたいのは、一般の方々にハロープロジェクトという名前だけで判断せず、中身をしっかり見て欲しいということです。そこから何かを感じ取れる人は少なからず居るはずですから。(…いかんせん露出が少ないよなぁ〜)

解説

今回、絵には学芸員や作者自身による解説が付いていました。自分のように何の知識も無い者にとっては、解説は作品の理解を大きく助けるものです。
とは言え、この解説という行為、結局のところ作品を見ればひと目で分かるようなことを、わざわざ言葉にして表現してるだけのような気もするのです。
言葉を駆使して何事かを説明するよりも、百聞は一見に如かずではないですが、当然、作品を直接見た方が何倍もダイレクトに伝わって来る訳です。
また、作者が直接、自身の作品を解説する場合、「これはこういうシチュエーションで描いた」という事は述べるのですが、じゃあ出来上がった作品が一体どんな力を持ち、メッセージを発しているのかという点については、客観的なコメントは無かったりする訳です。

ハローを語るということ

この、見ればひと目で分かる様なことをわざわざ言語化するという行為は、私達がハローを語る際にいつも行っていることです。
私達がハローを語る際に感じる名状し難いぎこちなさは、絵画が発する様々なイメージや力、メッセージといった、本来筆舌し難い何かを無理矢理言葉にして紡ぎ出す行為に伴う困難と同種のものだと思うのです。
「見れば分かる」確かにそうなんだけれども、やはり語らずにはいられない。どんなにぎこちなくとも、我々は語ることでしか体験を共有し合えないのかも知れません。

それから、作者自身から客観的に語られることが少ない

という点もハローに繋がるような気がします。
無論、「作者=つんく♂」と考えた場合には、彼は自身の楽曲について色々とコメントを出します。でもそれは、客観的に語るのとは少し異なります。
まして、「作者=メンバー自身」と考えた時には、メンバーが自分自身という「作品」についてその評価を客観的に語る事は極めて稀です。
やはり私達は彼女達のわずかなコメントを手掛かりにしつつ、ぎこちない言葉を紡いで語るほか無いのでしょう。

西洋絵画との違い

結構時間をかけて、多くの絵を観たのですが、たとえ西洋画的な画題を扱った絵であっても、いわゆる油彩の西洋画とは色が違う、ということに気付かされます。
落ち着いた色彩がベースにありつつ、同時に顔料に含まれる粒子がキラキラと輝いていたりして独特の質感もあったりする。
これが油彩の、ゴテゴテと絵の具を塗り重ねた様な絵ばかりであったなら、目も疲れて食傷気味になるところだったと思います。何と言うか、絵にたくさん見ても飽きない優しさがあるのです。
ハロプロも、あれこれたくさん見てもなかなか飽きないのは、華やかな様に見えてその実、日本的な和のテイストがベースにあるからなのではないか?と思った次第です。
例えば、道重さゆみという人は、パッチリとした目鼻立ちで、一見、西洋人形のようではありますが、その一方で日本的な和のテイストも併せ持っています。そういう重層的な解釈をできる両義性を備えていることが多様な楽しみ方を可能にしているのだと思ったのです。

ハロプロ=アート?

まあグダグタと駄文を重ねてしまいましたが、最近よく思うことは、ハロプロもアートの一種だなぁということです。
もちろん、美術館に飾られるようなタイプの「アート」とは違いますけれど、音楽もダンスも芸術の一領域として確立したジャンルですし、それらを舞台上で演じるのはパフォーミングアートの一種だと思うのです。まあ「アート」だと言い切ってしまうのは確かに少し気が引けるのですが、彼女達のパフォーマンスと純粋な「アート」との間には深い断裂がある訳では無く、確かにその地平は繋がっていると思うのです。
加えて私は、彼女達の顔立ちやボディの造形、そしてその存在感を見るに、絵画や彫刻の中に表現されるのと同種の美しさや存在感を感じます。
これら全てをいっぺんに私達に見せてくれるハロプロは、一種の総合芸術だと言っても過言では無いと思う訳です。
でも、別に何か特別な気持ちでハロプロを見る必要は全くありません。
なぜなら、ハローという作品から発せられるメッセージやパワーを自分なりの距離や角度で素直に受け止めて、感じること。それがすなわち、ハローを正しく鑑賞するということなのですから。